2006.2.25. 五色塚(千壺)古墳、小壺古墳

概略
五色塚古墳(千壺古墳とも)は神戸市垂水区五色山にある4世紀の終わりから5世紀の始めにかけて築造された兵庫県下最大の前方後円墳である。全長194m、前方部の幅81m、高さ11.5m、後円部の直径125m、高さ18mで、周囲に幅約10mの堀をめぐらせている。墳丘は3段に築かれており、下段は地山を前方後円形に掘り残し、中段、上段は盛り土を行っている。下段の斜面には小さな石を葺き、中段,上段の斜面には大きな石を葺いている。3段の斜面に使用された石の総数は223万個、総重量2,784トンと推定される。墳頂と2段の小段(こだん:テラス)には鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)、朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)などをめぐらしていた。3段に立て並べた埴輪の総数は2,200本と推定されている。また蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)、盾形埴輪(たてがたはにわ)はにわ)なども少量発見されている。堀の中には2つのマウンドが発見され、その一つには円筒棺(えんとうかん)を埋めていた。

小壺古墳は直径67m、高さ9mの2段に築かれた円墳である。築造年代は五色塚古墳とほぼ同じと推定されている。墳丘の頂部と小段には埴輪をめぐらせていたが、斜面に石は葺かれていなかった。小壺l古墳からは鰭付円筒埴輪のほかに家形埴輪が3個分発見されている。

五色塚(千壺)古墳
整備は以下の要領で行われた。
後円部:築造当時の形の上に盛り土を行い、浸透水を防止するため、その上を石灰と真砂土を混ぜた土で覆い、石を葺き上げた。排水設備は殆ど造られていない。築造当時より50センチほど高くなっている。後円部に使用した葺石は新規に購入したものである。

前方部:築造当時の葺石が残っているところはそのまま保存。残っていないところは落下した石を集めて葺き直した。東・西隅は電車の軌道や道路で切断されているため復元は出来なかった。南面、西面には葺石の下に水はけをよくするための砂をひいた。東面は石の沈下で凸凹にならないよう石をコンクリートで固定した。

下段と堀:下段は直径5〜10センチの石が葺かれていたが復元してもすぐ落ちる恐れがあったので、築造当時の葺石の上に盛り土をして芝張りをおこなった。堀は築造当時も空堀で、現状よりもやや広かったようだ。現在は周囲が道路になっているため、復元は不可能で、法面に芝張りをするにとどめた。

マウンド:下段と同じ小さな石で葺かれていたので斜面を芝で覆っている。

埴輪列:10mに18本の割合で立てられていた。後円部墳頂のみに合成樹脂で復元した鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪をめぐらせた。

石碑その1。

石碑その2。

管理事務所と小壺古墳。

前方部上から見た明石海峡。

前方部から後円部を見る。背後は住宅地となっている。右手下方に東マウンド。

前方部のすぐ近くを山陽電車(手前)とJR(奥)の線路が通っている。一部は古墳にかかっており、その部分の復元は不可能となった。

上空をいく神戸空港から飛び立った航空機。結構大きな音がした。

東マウンド。東側の前方部と後円部の境目の堀内に位置する。1辺約20m、高さ1.5m。全て土を盛り上げて造られている。斜面には石が葺かれていた。葺石の上からは土師器(はじき)、須恵器(すえき)、埴輪などの破片が見つかっている。

北東マウンド。後円部の東の堀内にある。円筒棺が2個見つかっている。

後円部への階段から見た前方部と明石海峡そしてその先に淡路島。

後円部上から見た明石海峡。眺めは抜群だが手前のマンションが・・・。

後円部上をパノラマで見る。縁部は合成樹脂で復元された埴輪がめぐらされ、その向うに住宅街と明石海峡大橋と淡路島というちょっと変わった空間。淡路島は記紀の日本列島の国産みの神話に登場し、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では、淡路洲と書かれ、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされる。このような神話に彩られた島に向かって古墳が位置しているのは非常に興味深い。

西側より見る。右に管理事務所。

北側より見る。一部は何かを植えるための畑になっているようだが。

東側から五色塚古墳越しに明石海峡大橋を見る。こんな景色をいつも見れる舞子の人たちがうらやましい。
 

小壺古墳
整備にあたり、墳丘が道路面まで伸びていたこともあり、墳丘斜面にテラスは作らず、全体に芝を張った。

歩道より見る。古墳の向うに明石海峡大橋の塔頂部が見える。

解説文は神戸市広報印刷物登録 平成2年度第165号 「史跡 五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」を参考にした。
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