湊川隧道一般公開(2005.11.23 神戸市兵庫区)
湊川隧道建設までの経緯:
現在の新湊川に付け替えられるまでの旧湊川は荒田村(現在の兵庫区荒田町)と会下山の間を通り、兵庫津の東の川崎浜に至る川で、左右岸の民家よりも高い土地を流れる天井川であった。慶応3年に神戸が開港地となり、神戸地域が発展するに従い、旧湊川の流出土砂による神戸港埋没問題が指摘されるようになり、また度重なる氾濫と天井川であることからの東西交通の障害という理由により付け替え議論が相次ぎ、ついに旧湊川を菊水橋付近から付け替え、会下山をくりぬいたトンネル(湊川隧道)に流し、刈藻川に合流させる工事が行われることになった。

湊川隧道の概略:
湊川隧道は神戸市兵庫区にある会下山(えげやま:標高85m)をくりぬく、我が国初の近代河川トンネルで、明治34(1901)年に竣工した。創設時の湊川隧道の延長は約600m、断面形状は馬蹄形、幅7.3m、高さ7.7mで当時としては世界最大級の規模を誇る。湊川隧道を含む湊川の付け替え工事は豪商藤田伝三郎、大倉喜八郎や地元の小曽根喜一郎といった実業家達が発起人となった湊川改修株式会社が行い、工事の計画、設計に当たっては、日本を代表する土木技術者である沖野忠雄や瀧川釖ニが深く関わっており、施工は現在の大成建設(株)である大倉組により行われた。施工はツルハシはノミ等を用いた手掘り作業で行われた。現在でも地下水位が高く、湧水等の排水や切羽の安定には苦労したと思われる。隧道内部は煉瓦覆工が施され、側壁はイギリス積み、アーチ部は長手積み、天井の一部は堅手積みと呼ばれる技法が採られている。またインバート部は煉瓦の上に花崗岩を切石として敷きならした構造をしている。旧湊川付け替え後、旧湊川の堤防は削られ、旧河道は埋め立てられて「新開地」と呼ばれる繁華街として発展することになった。この湊川付け替え工事は同時期に行われた烏原貯水池立ケ畑堰堤や奥平野浄水場等の神戸水道事業、兵庫運河開削の港湾事業と並び、神戸における明治期の三大土木事業と言われている。

湊川隧道の保存について:
平成7(1995)年1月17日の阪神・淡路大震災により、吐口坑門工は崩壊、隧道本体は一部に煉瓦の剥離、亀裂及びアーチ部の垂れ下がりが確認され、そのため応急補強工事が行われた。が、新湊川復旧工事中の1998、99年には、新湊川が台風の影響などで氾濫、周辺住民らが避難した経緯もあり、新湊川の災害復旧助成事業により新たな「新湊川トンネル」(約680m)の建設が決定し、湊川隧道の両坑門は消滅することになったが、新湊川トンネルの両坑門に隧道扁額が再利用され、坑門もイメージ復元された。また、兵庫県は学識者、民間、行政からなる「トンネル保存検討委員会」を設置し、歴史的、技術的評価等の検討を行い、湊川 隧道が地域の文化を継承する近代土木遺産としての価値があり、将来は活用も視野に入れて保存することの必要性があるとの結論を出し、保存が決定した。平成13(2001)年7月にはトンネル保存検討委員会メンバーの呼びかけで一般の人々も参加する「湊川隧道保存友の会」が組織され、現在では講演会、見学会、会報の発行等、湊川隧道の保存と活用に向けた取り組みを行っている。

(湊川隧道パンフレットを参考)
庫県神戸県民局県土整備部神戸土木事務所
湊川隧道保存友の会
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