第38代天智天皇の時代に藤原鎌足公が一堂宇を創建して、自ら紫色の籐樹を植え、藤寺と号して家門の隆昌と子孫の長久を祈ったのに始まり、後、第45代聖武天皇の時代に至って、詔勅によって堂塔を改修増築して規模を拡張、観勝寺と改号されたという。爾来、常に歴代天皇の崇敬を得たが、中でも第75代崇徳天皇は、この紫藤を愛し、近衛天皇に譲位されて上皇となった1146年(久安2年)、堂塔を修造して寵妃阿波内侍を住まわせた。保元の乱(1156年)の後、崇徳天皇が讃岐の国へ流されたのち、阿波内侍が悲哀に暮れる日々を送っていることを風の便りに聞いた崇徳天皇はあわれと思い、束帯の御尊影に随臣源為義、同為朝の像を自ら描き、これを内侍に賜った。崇徳天皇が崩御して、落飾した内侍はこの御宸翰を寺中の観音堂に奉斎して勤仕した。1177年(治承元年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂に参拝したとき、崇徳上皇がお姿を現わし、往時の盛況を示した。このことから、後白河法皇が崇徳天皇を奉斎すべく詔によって建治年間(1275年〜77年)に建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれる。1177年(治承元年)、その後、光明院観勝寺は応仁の乱(1467年〜77年)の兵火により荒廃してしまったが、1695年(元禄8年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建された時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになった。明治維新の後、院を廃して安井神社と改称したが、第二次大戦後、安井金比羅宮となり現在に至っている。
(「安井金比羅宮略縁起」等参照)
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