六孫王神社(ろくそんおうじんじゃ)

唐門 朱印

鎮座 京都府京都市南区壬生八条通角
祭神 六孫王大神 (ろくそんおうおおかみ):源朝臣経基(みなもとのあそんつねもと)
天照皇大御神(伊勢神宮祭神)
八幡大神
旧社格 -
由緒

祭神の経基王は第56代清和天皇の第六皇子貞純親王の御子(天皇から見れば孫に当たる)ことから、六孫王と呼ばれた。嫡子で、当社を創建した源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」を称している。

経基王は承平天慶年間の平将門・藤原純友の乱には鎮守府将軍として任地に赴き、乱を平定、その功により天皇より源姓を賜り源朝臣を称することとなり、やがて武門の棟梁として名を天下に知らしめた。応和元(961)年、経基は臨終に際し、「亡き後も霊魂は龍(神)と化して此の西八条亭の池に住て子孫の繁栄を祈らん」と遺言した。(これが境内中央にある神竜池である。)応和3年(963)年、嫡子の満仲は王の第宅であった現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営した。これが当社の創建である。現在も、本殿後方に経基の石積の廟がある。
鎌倉時代、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされた。足利義満の時代に社殿仏閣がほとんど焼失し、応仁の乱によって社領を奪われて、経基の墓所だけが残された。元禄13(1700)年より、江戸幕府により社殿の再興が進められた。元禄14(1701)年には正一位の神階と権現号を授けられた。宝永4(1707)年に社殿が再建された。そのため、10月の例祭は「宝永祭」という。江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また、神仏分離により大通寺とわかれた。明治44(1911)年、国鉄の鉄道用地となったため大通寺は移転した。


メモ

京都市南区、京都駅から西に徒歩20分のところにある。社地は、源経基の邸宅「八条亭」の跡地である。境内の上を東海道新幹線の高架が通っている。ちょうど境内の植木の剪定が行われていた。

公式HP http://www.rokunomiya.ecnet.jp/

境内入り口
参道 参道
末社:稲荷社
末社:誕生水弁財天
弁才天像は弘法大師作といわれ、経基が満仲誕生の折、産湯に使われた井戸の上に祀られたところから誕生水弁才天と呼ばれる。
手前は神竜池 拝殿
唐門 拝殿
境内の上を東海道新幹線の高架が走る。 境内にあるお地蔵様?

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