離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)

鳥居と社殿 朱印

鎮座 京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21番1号
祭神 応神天皇、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫命(いちきしまひめ)、湍津姫命(たぎつひめ)、
酒解大神(さかとけおおかみ)(又は大山祇神(おおやまづみかみ))
旧社格 府社
由緒 平安時代の初め、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見た時「鎮護国家の為九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ動座せよ」とのお告げを聞いた。、これにより大安寺の僧行教は九州宇佐八幡宮から神霊を奉じ、帰京したが、山崎の津で夜の山に霊光を見た。そこで此地を掘ると岩間に清水が湧き出したので、「石清水八幡宮」を貞観元年(859年)此地に創建した。現在は嵯峨天皇離宮の地であったことから「離宮八幡宮」と号している。水無瀬川より円明寺に及ぶ広大な神領を有し、「西の日光」といわる程の広壮な社殿を構えていたが、幕末の「禁門の変」では長州藩屯所となったため兵火で焼失した。また明治9年(1876年)、東海道本線(現JR東海道線)開通のため社地の大半が其の用地と化し、社地は大幅に減少した。明治12年(1879年)、社殿が再興し、昭和4年(1929年)には改築され、現在に至っている。なお、兵火を免れ現存する建物は高麗門(正門)、東門のみである。
(「離宮八幡宮参拝の栞」等参照)

メモ

JR山崎駅からすぐ。禁門の変で焼失するまでは壮大な社殿があったといわれ、それを見てみたかったと思う。また、鉄道用地として社地の多くを切り取られた。荏胡麻での発展とその後の衰退とあわせて考えると、ここも中世から近代にかけての歴史に巻き込まれた神社といってもよいだろう。
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日使頭祭(ひのとうさい):毎年4月3日に行われる。山崎の津が油業の大中心地となり、また港として繁栄した室町時代には50隻の船が渡御する大祭礼であった。京都加茂神社の葵花をかざす祭りが「北祭」(あるいは「葵祭」)と呼ばれたのに対して、油長者が藤花をかざすこの祭りは「南祭」(あるいは「藤祭」)と称えられ、豪華を極めたものであった。

製油の始まりの地:清和天皇の頃、離宮八幡宮の神官が「長木」と呼ばれる道具を発明し、これで「荏胡麻」を絞って油を採り、灯火に用いた。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていたが次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜って山崎に「油座」の制度が布かれた。諸国の油商人は本宮から許状を授与されるに至り、離宮八幡宮は油の販売権を独占して大いに栄えた。しかし、織田信長の「楽市楽座」の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになると、これに市場を奪われ、徐々に衰退していった。

公式HP http://www.lily.sannet.ne.jp/t-h-nak/

高麗門 (重要文化財) 守護不入之地石碑
離宮八幡宮は室町時代歴代の足利将軍から油商人の関所通行税の免除や守護の干渉を防ぐ御教書をもらっていた。自治権の認められていた範囲は円明寺から水無瀬川にまで及んだ。
油祖像 「河陽宮故址」の碑と「本邦製油発祥の地」の碑
かしき石
相応寺の塔の心礎であるといわれている。しかし、奈良時代以前のもので相応寺創建の時代と合わない為、古くから山崎にあった寺院の礎石が再利用されたとも推測されている。
拝殿
東門 (大山崎町指定文化財) 社務所の前には荏胡麻が植えられていた。

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