上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)

鳥居と楼門 朱印

鎮座 京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町
祭神 本殿八座
 崇道天皇 (光仁天皇第二皇子 早良親王)
 井上大皇后 (聖武天皇第一皇女 光仁天皇ノ皇后)
 他戸親王 (光仁天皇第四皇子)
 藤原大夫人 (藤原吉子命)
 橘 大夫 (橘逸勢命)
 文 大夫 (文屋宮田麿命)
 火雷神 (以上六所ノ荒魂)
 吉備大臣 (吉備真備命)
相殿五座
 三社明神四座
 和光明神一座

境内神社
 神名神社、稲荷神社、厳島神社、花御所八幡宮、大舞神社、天満宮社、多度神社、貴船神社、粟島神社、白髪神社、長宮三十社
旧社格
由緒 社記によれば、延暦13(794)年5月に平安遷都にあたり桓武天皇の御願により、崇道天皇の神霊を現今の社地に祀られ京都の守護神とせられたのが始まりである。その後、仁明天皇、清和天皇両朝に至って井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫人、文大夫の神霊を合祀せられ、貞観5(863)年5月20日神泉苑に六座の神座を設け、悪疫退散の御霊会を勅修した。これが当社御祭神を勅祭した始めで、これは御霊祭の起源であり、祭礼として最も古い都下随一の謂れがある。その伝統は一千百余年連綿と受け継がれている。のち更に以上六所の荒魂、火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至り、俗に社号八所御霊又は八所御霊大明神と稱(とな)へ奉り国家守護、皇居産土神、都民擁護の崇社として鎮座し給える。往古より朝廷の最も恐れ崇め奉った神社であり、また疫病除の霊社として有名である。皇室、武門を始め一般の崇敬も篤く、分祀は京都府下において三十余社に及ぶ。
神殿は左右両殿に岐(わか)れていたが、応仁の乱以後、合して一社となる。神殿は近古より造営の都度賢所御殿をご寄進あらせられるを例としていた。現在の神殿は享保18(1641)年に寄進された賢所御殿(旧神殿)を昭和45(1970)年に復元したもの。

メモ 上御霊神社は通称名で、宗教法人としての正式名は御靈神社である。5月18日の御霊祭は、京都で最も古い祭りと言われる。往古境内は御霊の森といい、現在の約二倍あり、文正2(1467)年の正月には、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が境内で行われた(御霊合戦)。これは翌年勃発の応仁の乱の前哨戦となり、御霊神社は応仁の乱発祥の地とされる(鳥居横に石碑が立っている)。

鳥居と楼門 応仁の乱勃発地の碑
楼門 神門(境内南側)
松尾芭蕉句碑
元禄3年に参詣し奉納した俳句の句碑。
「半日は神を友にや年忘
絵馬堂
舞殿と拝殿 舞殿
拝殿と本殿 拝殿

摂社・末社
花御所八幡宮 摂社・末社
ずらりとならぶ摂社・末社
厳島神社 神明神社
福壽稲荷神社参道 福壽稲荷神社

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