伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)

参道と社殿 朱印

鎮座 愛媛県松山市桜谷町173番地
祭神

神功皇后(じんぐうこうごう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
応神天皇(おうじんてんのう)
三柱姫大神(みはしらのひめおおかみ)

旧社格 延喜式内社
由緒 社伝によると神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたといわれ、延喜式に載っている古社で、湯月八幡とも道後八幡とも呼ばれていた。伊佐爾波という社名の起源には諸説あるが、神功皇后の事績に関わる名称とみるのが妥当と考えられる。
当初は道後公園山麓に鎮座していたと推定され、建武年間(14紀前半)頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し、道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、伊予、浮穴)総守護と称えた。その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所と定め、久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進した。 現在の御社殿は江戸時代に入り江戸城で弓の競射を命じられた三代藩主松平隠岐守定長公が八幡様に必中を祈願し、それが成就したお礼に飛騨の工匠を招いて建て替えられたものである(寛文4(1664)年6月起工、寛文7(1667)年5月竣工)。京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りの社殿で、昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けた。
(伊佐爾波神社由緒書参考)

メモ 伊予鉄道市内線道後温泉駅から東に坂を上っていくと長い階段の参道があり、その上に楼門が見える。道後には欠かせない風景で、ドラマでも時々登場する。境内は典型的な八幡造りで、京都の石清水八幡、宇佐神宮と同様の構造だという。それもそのはず、松平定長公は必中祈願の際、湯月八幡宮に「石清水八幡宮と同じ建物をお建て致しますので金的を射させてください。」と祈願し、見事矢を射抜き祈願したとおり飛騨の工匠を招いて八幡造りの社殿を建立したということである。。赤や朱が多用されて、とても華やかな印象だ。特に平成12年から14年にかけて塗り替えられた本殿の朱は目に鮮やかである。(この際、透き塀の塗り替えと桧皮葺屋根の総葺き替えも行っている。)回廊には奉納された絵馬が掲げられている。(昔は算額もあったらしいが現在は保管されている。)また秋のお祭りに使われる御神輿も保管されている。松山地方のお祭りでは御神輿同士をぶつけ合う「鉢合わせ」が行われ、激しい一面を持っている。
公式HP http://isaniwa.ddo.jp/

楼門(正面) 楼門
本殿と申殿内部
三社が横に連ねられた形式で、それぞれに階段と御扉を持つ。
拝殿には「湯月八幡宮」の扁額がかかっている。
廊下と申殿
廊下(左)と申殿(右)。
申殿と本殿
透塀で囲まれているのがご本殿。屋根が前後二棟に葺き分けられているのが『八幡造り』の特徴で、前殿を「外陣」後殿を「内陣」と呼ぶ。
本殿
手前が「内陣」、奥が「外陣」。
申殿、廊下と楼門
回廊内部の絵馬 回廊内部の絵馬
回廊内部に保存されている御神輿 回廊外部

末社
高良玉垂社 (境内社:北側)
武内宿禰命を祀る。長寿、厄よけの神様として知られる。
常盤新田霊社 (境内社:南側)
新田義宗、脇屋義治、松平定長を祀る。
素鵞社 (石段中腹南側)
素盞之男命、稲田姫命を祀る。五穀豊穣の神様。

参道最上段からみた道後の町

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