平野神社(ひらのじんじゃ)

東鳥居 朱印

鎮座 京都府京都市平野宮本町1
祭神 今木大神、久度大神、古開大神、比賣神
これらの神々は古事記・日本書紀などの神代巻に見えないが、平安初期に書かれた「延喜式」などに、宮中に祀られる「平野御竈神」などと、古来宮中にかかわる神であったことが知られている。様々な所伝から考えると、今木大神は「神今食(かみいまけ)」で新嘗祭についで穀霊等から生気、元気をいただく祭、久度大神は「くど=かまど」。古開大神は「古」が「魂ふり」。すなわち魂を振り動かし活性化すること、「開」は古い訓に「はらく(晴れやかにする)」があることから、邪気を祓い元気をよみがえらせる神事にかかわる神。すなわち三神は「神今食」「御竈祭」「鎮魂祭」などの宮中祭祀とかかわる神であったと考えられる。また比賣神は、通説では神事に仕えた女性の神格化とされる。
旧社格 延喜式 式内社 並名神大 月次新嘗
官幣大社
由緒 京都の西北、衣笠山麓の平野に鎮座する。桓武天皇の平安京遷都にともない、794年(延暦13年)に平城京田村後宮から現在の地に遷祀。初見は延暦元年(今木神)で京都遷都後、久度、古開、比賣神が祀られる。平安時代には源氏、平氏をはじめ、大江氏、菅原氏など皇室を直接の先祖とされる氏族の氏神として平氏政権や源氏の歴代将軍からも手厚い保護を受けた。平安中期以後は22社中の5位として、伊勢・賀茂(上・下)石清水・松尾につぐ名社であった。しかし、応仁・文明の乱をはじめとして京都が戦乱の巷となった中世末期には朝廷や貴族の保護もなく、1536年(天文5年)の天文法華の乱で宮司が横死、寛永4年の「平野神社縁起絵巻」に慶長年間には社領も失われ社殿・社地は荒れたと記録されている。江戸時代初期の寛永年間に平野神社の社寺伝奏となった平家嫡流の公卿、西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の努力により、皇室はじめ、各公卿、将軍家、島津、伊達などの大名家の援助も受けて現在の社殿が再建された。時慶はまた花山天皇の植栽した桜を復活させて社地に桜を植えた。その後も西洞院と歴代宮司がこれを受け継いで、「平野の桜」が御室、嵐山などと並ぶ都を代表する桜苑になるまでに育て上げた。明治四年官幣大社に列し、洛西の総氏神として仰がれている。
(「平野神社略記」参照)

メモ 北野天満宮の北西すぐに位置する。境内は受験生で賑わう北野天満宮に比べてうそのように静か。境内の南側には桜苑がある。たくさんの桜の木があり、春はきれいなんだろうなと思う。
公式HP http://www.geocities.jp/daa01397/

本殿と拝殿
本殿玉垣内東向きの社殿は二社ずつ人組みになっており、春日神社の四社一組の社殿を二つに分けたような平野神社独特の造りで、「平野造」あるいは「比翼春日造」といわれている。1628年(寛永5年)に再建。
舞殿

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