赤間神宮(あかまじんぐう)

水天門と太鼓楼 朱印
朱印帳

鎮座 山口県下関市阿弥陀寺町4番地1号
祭神 安徳天皇(第81代)
旧社格 官幣大社
由緒

源平最後の合戦である「壇ノ浦の合戦」で安徳天皇は僅か(数え年)8歳で平家一門と共に壇ノ浦に沈んだ。安徳天皇の遺骸は赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に埋葬された。(筆者注:山口県豊田町の安徳天皇西市御陵墓ともいわれる)建久2年、朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立して建礼門院御乳母の女、少将の局、命阿尼を仕えさせ、勅願寺とした。明治維新に至ると阿弥陀寺を廃して御影堂を改め、天皇社とした。明治8年10月7日に官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め、社殿を造営せしめた。昭和15年8月1日には官幣大社に列し宮号を改めて赤間神宮となった。第二次世界大戦時の空襲により社殿を焼失、昭和40年4月に現在の社殿が完工した。
(「赤間神宮略記」参照)


メモ 私の地元、北九州市からは関門海峡を渡ってすぐであり、昔からなじみのある神社である。国道9号線をはさんで関門海峡に面しており、「ここがあの壇ノ浦か」と思うと、感慨深いものがある。ここでは中国四国地方用の朱印帳を購入。赤いのと青いのとがあったが、「赤間神宮なら赤だろう」と赤いのを購入。しかし、赤い社殿に赤い背景ではちと保護色のようになっているのでは?今年は大河ドラマのおかげで参拝者も多いようだ。なお、境内には昭和20年まで、中国の大連市にあり戦後、赤間神宮の水野久直宮司がご神体を背負って引き揚げられ祀られた大連神社もある。
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境内には安徳天皇阿弥陀寺陵がある。これは西日本唯一の御陵である。また、壇ノ浦で命を落とした平家一門の墓もあり、七盛塚と呼ばれる。また耳無し芳一の伝説地でもある。

特殊神事 先帝祭:安徳天皇の命日を皮切りに3日間にわたり行われる。中島四郎太夫正則という武士が郎党を率いて赤間関西端王城山に籠もり、再興を図ったが、機運は遂に訪れず漁業を営むに至った。その後、例年、先帝の命日には威儀を正して参拝を続けたというのが由来である。また、多数の女官達も先帝御命日には閼伽を汲み、香花を手向け威儀を正して礼拝を続けた。これが上臈参拝のはじまりであるという。無形文化財に指定されている。

水天門:国道9号線からも見える水天門は昭和33年に造られたもので、竜宮造りと呼ばれる。

『いよいよ平家一門入水のとき、ニ位の尼、時子(清盛の妻)は神璽(しんじ)と宝剣を取り、安徳天皇を抱きかかえて船縁に歩み出た。8歳の帝は「尼ぜ、われをいづちへ具してゆかんとするぞ」と問うた。孫を抱く尼は「君は今だ知ろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によりて、今万乗の主と生まれさせ給へども、悪縁に惹かれて御運既に尽きさせ給ひぬ。まづ東に向かわせ給ひて伊勢大神官に御いとま申させ給ひ、そのご西に向かわせ給ひいて、御念仏さぶらふべし。この国は憂きさかえにてさぶらえば極楽浄土とてめでたき処へ具しまいらせさぶらふぞ」泣く泣く尼が申したので、帝は涙を浮かべ、手を合わせて東へ伏し拝み、西に向かって念仏した。その瞬間、二位の尼はすぐさま帝を抱き取り、海へ跳んだ。』

この故事を縁(ゆかり)として、このような竜宮城を思わせるような形の門を造営することになったそうである。

公式HP http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/

太鼓楼と水天門
鳥居をくぐって駐車場に入ると、すぐに目に入るのが水天門。左手は太鼓楼。
安徳天皇阿弥陀寺陵の入り口
黄色い壁の建物は「日清講和条約記念館」。
安徳天皇阿弥陀寺陵では「先帝慰霊祭」が行われていた。
入り口にあった大きな絵馬。 水天門と関門海峡
水天門の脇を通って拝殿に向かう階段を上りふり返ったところ。水天門の向こうに見えるのは関門海峡。明日の先帝祭に備えて回廊が設置されている。
外拝殿(大安殿) 「水天供養塔」
昭和25年3月建立 赤間神宮十三重御宝塔
七盛塚
画像ではよく見えないが、この地で亡くなった平家一門の名がそれぞれ刻まれている。
実は、この下が安徳天皇阿弥陀寺陵となっており、死してなお安徳天皇より平家一門のほうが上に位置しているのが興味深い。鬱蒼と木が茂り、日中なのに薄暗く、今でも平家一門の霊がいるのではないかと思わせる雰囲気があった。
「耳なし芳一」の伝説で有名な芳一堂
七盛塚のすぐ近くにある。いまでも平家の亡霊が芳一の琵琶の音色を求めて出てくるのであろうか・・・。

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