禅林寺(ぜんりんじ)

大玄関と多宝塔
多宝塔は境内の最も高い位置にあり、昭和3(1928)年、篤志家の寄付で建立。
朱印

所在地 京都市左京区永観町48番地
寺号 聖衆来迎山  無量寿院  禅林寺 (しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)
本尊 阿弥陀如来
開基 -
開山 真紹僧都(しんじょうそうず)
宗派 浄土宗 西山禅林寺派 (総本山)
縁起 弘法大師の弟子である真紹僧都が歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り禅林寺を創建したのは仁寿3(853)年であった。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5(863)年、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まった。創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に、「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」と、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げた。真紹僧都から永観律師(ようかんりっし)が住職になるまでの約220年間は、真言密教の寺院であった。永観律師は、自らを「念仏宗永観」と名乗る程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力した。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来している。永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず)までの約140年間は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院であった。その後は浄土宗の寺院となった。永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都である。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依した。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人に譲った。その後、証空上人の弟子、浄音上人が住職になり浄土宗西山派の寺院となった。以来今日まで、約800年、永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げている。
(「禅林寺 パンフレット」参照)

メモ 「みかえり阿弥陀」について
一老翁が捧げた阿弥陀像を宮中で祀っていたが、やがて東大寺に下賜された。(『東大寺要録』) この阿弥陀如来像は東大寺宝蔵に秘蔵されていたのだが、たまたま永観律師はその尊像を拝する機会があり、尊像の奥深いところから呼びかける声を聞いた。永観律師は衆生済度こそ、この仏の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない、と嘆いた。これが白河法皇の耳に入り、永観律師が護持し、供養することとなった。後年、永観が東大寺別当職を辞して、尊像を背負って京に入る際、東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけて京都の木幡まできたところ、尊像は永観の背に取り付いて離れず、僧たちはあきらめたと言い伝えられている。永保2(1082)年、永観律師50歳のころ、2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観律師は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、
「永観、おそし」
と声をかけられた。永観はその尊く、慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。
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哲学の道の南端に位置する。「紅葉の永観堂」といわれるように、紅葉が特に有名であるが、紅葉にはちょっと早かった。「みかえり阿弥陀」で知られる本尊は近くで拝観することができ、よかった。境内は広伽藍や庭園をゆっくり見ることができた。また、茶店で食べたよもぎ団子がおいしかった。紅葉の時期は拝観料が普段の600円から1,000円となるので注意。
公式HP http://www.eikando.or.jp/

境内にある茶店
蓬(よもぎ)団子が美味しかった。

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