浄土寺(じょうどじ)

本堂 朱印

所在地 兵庫県小野市浄谷町2094
寺号 極楽山 浄土寺
本尊 薬師如来、阿弥陀如来
開基 -
開山 俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)
宗派 高野山真言宗
札所 新西国三十三箇所 客番札所
縁起

浄土寺の建つ地には、奈良時代の僧・行基の建立した前身寺院があったとも言われるが、実質的な開山は平安時代末〜鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した俊乗坊重源である。治承4(1180)年、平重衡の軍勢による南都焼き討ちで、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀(三重県)、周防(山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を播磨国大部庄(おおべのしょう)といい、東大寺領であった。

境内には池を中心にして、西に重源当時の建築である浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の薬師堂(本堂)が建つ。この配置は偶然ではなく、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している。
(小野市観光協会パンフレット参考)


メモ

浄土寺といえば浄土堂に安置された阿弥陀三尊像であろう。ここではその解説を紹介する。なお、堂内は撮影禁止である。

阿弥陀如来及び両脇侍立像:浄土堂中央の須弥壇に安置される。仏師快慶の代表作。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍の像高は各々3m70cmある。快慶は俊乗坊重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀信者だったことが知られている。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いが、本作は珍しい大作である。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表わされている。阿弥陀三尊が西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものである。作風には当時流行の宋風が顕著である。

浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開けると背後からの光が入るようになっており、西日を受ける時刻になると堂内全体が朱赤に深く染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。

公式HP -

浄土寺遠景 浄土寺入り口
浄土堂:国宝。 建久5(1194)年上棟。本瓦葺、宝形造。柱間が6mと広く、屋根が直線的である。東大寺再建に用いられた大仏様を残す唯一のぶつどうで、虹梁を支えるために太い柱に差し込まれた挿肘木や天井を張らない化粧屋根裏、隅部の扇垂木などにその特徴が認められる。
不動堂 薬師堂:重要文化財。建久8(1197)年上棟したが焼失。永正14(1547)年に再建。規模は浄土堂とまったく同じ。純粋な大仏様ではなく、和様、唐様などの建築技法が混在した折衷形式となっている。
開山堂:県指定文化財。開祖であ重源上人の坐像を安置するためのお堂。薬師堂と共に焼失し、同時期に再建された。現在の建物は本瓦葺、宝形造の簡素な形式で、前側が庇となり、古風な形を今に伝えている。
八幡神社:創建時に祀られた浄土寺の鎮守社。
拝殿:重要文化財。本瓦葺、寄棟造の大きな割拝殿。鎌倉時代後期に再建されたもの。天井を張らない化粧屋根裏や虹梁(こうりょう)の架け方などに大仏様の技法が認められる。
本殿:重要文化財。室町時代後期に再建された桧皮葺の三間社流造。花木や鳥などを配した写実的な蟇股(かえるまた)にその時代の特徴がよく出ている。
鐘楼:県指定文化財。寛永9(1623)年に建てられたもの。本瓦葺、入母屋の大屋根で裾部は袴腰で江戸時代初期の様式をよく残している。平成18(2006)年に解体修理した際に屋根を桧皮葺にすることになった。
鐘楼の解体復元工事:鐘楼は傷みが目立つため解体修理が行われた。調査の結果(雨だれによる敷石の窪みの位置の違い)から創建当時は本瓦葺ではないことがわかり、隣接する八幡神社本殿の屋根が桧皮葺であることから桧皮葺に葺き替えることになった。完成を目前に控え、丁度見学会が開かれていた。
工事責任者による解説。
桧皮葺となった屋根。

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